2025/03/23

泳げなくて春

 おろち湯ったり館へ行き、久しぶりにプールにありついたのだった。ホームプール閉鎖前の1月下旬以来なので、実に約2ヶ月ぶりである。
 別のブログにも書いたが、先週仕事の用件で鳥取市に行く機会があって、その日は16時くらいで解放されるスケジュールだったので、島根に帰る道すがら、倉吉市にあるという温水プールに立ち寄るという計画を立てていた。初めて行く街の、初めて行くプール。仕事の用件のことなんかそっちのけで、気持ちが盛り上がっていた。しかし実際に当日になり、まあまあ朝早くに出発して鳥取市まで車を走らせたら、なんかもうじっとりと疲れてしまい、帰りにまた同じ距離を走って帰るのに、その途中でプールなぞ……、となって実現しなかったのだった。僕が今生で倉吉市の市民プールに行く機会は、これが唯一のものであった可能性が高い。そう考えればちょっと無理してでも行くべきだったような気もするし、やっぱりあのときは、翌日は普通に出勤だったし、あきらめて正解だったとも思う。
 そんな残念な出来事も経て、とうとう叶った2ヶ月ぶりの遊泳であった。その首尾はどうだったかといえば、もちろん気持ちよかったけれど、かき立てまくっていた思いを十全に満足させるほどの喜びは、正直言って得られなかった。
 たぶんこれは、この2ヶ月間で僕のプール回路が閉じているのが原因だろうと思う。水泳って、水泳に限ったことではないが、間を空けて、ある瞬間に一気にやって大きな感動があるタイプの行為ではなく、習慣として定期的にやっていると、だんだん回路が太くなって、それが保たれている間はずっと心身の状態が底上げされるような、そういう行為なのではないかと思った。だから尊いのだとも。
 そんなわけで、ますますホームプールの再開が待ち遠しくなったのだけど、ちょうどつい先日、ホームプールからハガキが届いたのである。それは、『2月から4月いっぱいまでプールは工事で閉鎖するから、その期間が会員期限に含まれる人は再開後に会員カードを持って来館してくださいね、延長しますからね』という内容で、思わず、「お、おん……」となった。2月から閉鎖していて、そしてやっぱり閉鎖期間が短くなるということは決してなさそうなプールから、3月下旬に届くその連絡。なんだかトボケている。トボケているというか、ちょっと会員の扱いがさすがに雑なのではないかと、声高に叫ぶわけではないが、少しもやっとしたものを抱いた。もっとも顧客満足度が高い、ユーザーにとって快適な空間作りに尽力しているような場って、そこに愛着を持つ人々が群がるせいで、逆に居心地が悪くなるので、このくらいぞんざいなほうが逆にいいかもしれないな、などとも思う。めんどくせえ顧客だな。
 季節はすっかり春になった。子どもたちは春休みだが、プールは開かない。春休みの営業をすっぱりあきらめるってすごいな、さすがは公営だな、と思う。もっとも子どもたちなんか別にどうでもいいのだ。プールの真の情趣って、たまに行ってはしゃぐ、そういう接し方をしたって決して得られない。ストイックに、それがまるで日々の勤めであるかのように、中高年が黙々と歩いたり泳いだりする、そういうところにあるのだ。だから本音を言えば子どもなんかなるべく来てほしくない。このめんどくせえ顧客は、さらに老害でもあった。もはや救いようがない。早く自由に泳ぎたい。

2025/02/08

ジュリー・オオツカ著「スイマーズ」を読んで

 「スイマーズ」という小説を読んだ。
 タイトルや表紙から、プールと水泳にまつわる話だろうと当て込んで読み、まあ序盤はだいたいその通りで、書き方にだいぶ癖はあったものの、それなりに愉しく読んだ。
 本のカバー見返しにあるあらすじはこうである。

 必死で泳いでいると、束の間日常生活の悩みを忘れることができる。そのために、ほとんど依存といってよいほどに公営プールに通い詰める人々がいる。ある日、プールの底に原因不明のひびが入ったことから、スイマーたちは戸惑い、しだいにその生活と精神に不調があらわれはじめる。そのうちのひとり、力強く泳いでいたアリスの認知症は自分の名前を思い出せないほどに進行する……。ひとりの人間の過ごした時間の断片を、現代を生きる我々の喜びと苦しみに共有させる傑作中編小説。

 序盤は本当に、プールを舞台にした、群像劇的な、「あるある」なんかも織り交ぜられた、ちょっとだけ特殊なエンターテインメント小説、という感触だったのだ。なにしろ僕自身、会員となって日々プールに通っているため、その内容には格別の臨場感があった。
 通っていると、特にオフシーズンなんかは会員の濃度が高まるし、行くのはどうしたって同じような時間帯になるので、見知った顔が多くなってくる。ただしこの小説の中のプール会員たちと違って、僕は他の会員と交流することは一切ないけれど。
 物語では、プールの底に謎のひびが入ったことで、プールは無期限の休館となる。これもまた、2月から春休みまでをも含む3ヶ月間のメンテナンス休館を告げられた自らの状況と共通する。登場人物たちと一緒で、僕もなかなか現実を受け入れられなかった。3ヶ月もプール通いを奪われて、果たして僕は大丈夫なんだろうか、という不安に襲われた。
 それはたぶん、行くたびに顔を見かける常連の輩もそうだっただろうと思う。僕と同じで、他の会員とまったく交流しない会員だってもちろんいるだろうが、そうではない、更衣室で挨拶を交わし、大きな声で世間話をする彼らは、当然3ヶ月間の休みについての懊悩を、互いに語り合ったろうと思う。前回の記事に書いたように、休館前の最後の来館時に会員期限のことをやってもらおうとして、3ヶ月というのがあくまで予定だということを告げられるといった、情弱さを痛感するような出来事があったこともあり、大規模休館というのはプールにおいて有事ということになるが、平時のときはのうのうと、与えられた権利を掠めとるように生きればいいけれど、有事になると積極的な集団との繋がり、そしてそこから得られる情報がものを言うのだという、まるで戦渦に在るかのような気分になったのだった。僕も同じ境遇の人と、不安を打ち明け合い、情報を得たかった。
 プール休館問題に限らず、僕には話し相手というものが、基本的に妻であるファルマンしかいないのだが、ファルマンにプールの休館についての嘆きを聞かせるほど無駄なことはない。ファルマンは2年ほど前、個人会員ではなく家族会員のほうがトータルでは安上がりになるのではないかと考え申し込んだ、1年間の家族会員期間に、とうとういちども近所のプールに入ることなく会員期間を終えたというくらい、プールに興味がないのだ。
 さまざまな葛藤、あるいは達観をして、物語のプールはいよいよ閉鎖の時を迎える。それは本全体の半分にもならない、5分の2くらいの所で、ここから話は、著者の母親がモデルなのだろうアリスという女性の認知症の進行、それにまつわる周囲のあれこれが、すべてになる。これ以降、プールの話はまったく出てこない。ひびが直り、プールが再開するなどという描写はない。アリスはベラヴィスタという介護施設に入り、もちろんそこから出ることなく、人生を終える。
 生きがいであったプール通いが奪われてアリスの認知症は加速してしまったのだというふうに考えたら、超高齢化社会である日本の中でも有数の高・高齢者比率である島根県にあるプールの大型休館というのも、他人事ではないというか、あの老人たちがこの小説を読んだらどう思うだろう、という話である。ともすれば3ヶ月後、プールに帰還しない老人だっているかもしれない。
 あるいは先ほどプールの大型休館を、有事であり、戦渦に巻き込まれるような状態に近いと書いたが、物語の中のプールは、すなわちアリスの脳のメタファーなのであり、そこに認知症という原因不明のひびが生じたことにより、それまでの日々が失われる(ひびと日々を掛けているので上手い)という、この物語とはつまりそういう仕組みになっていると考えれば、老朽化によって、内部の管などにさまざまな問題が生じ、ここ数年やけにメンテナンス休館の期間が拡張しがちな、そして高齢者の比率が極めて高い島根県のプールという現実を考えるにつけ、とても身につまされるというか、このどんどんGDPが下がって、出生率が下がり、老人ばかりが増えて人口が減少する日本のこの時勢において、現存するプールが保てなくなったら、新しくプールが造られるビジョンは到底見えず、たぶん今の高齢者が生きている間は、プールも、年金も、ぎりぎり持つけれど、それがなくなって、いまの中年、つまり僕だけど、それが高齢者になったとき、この世にプールはなく、国庫にプールされている蓄えもなく(また上手い)、いったいなにをよすがに生きていくのだろう、などと思う。
 話のモチーフが、あまりにも身近であったために、こんなにも感じ入って、後半部である全体の5分の3は、アリスがどれほど切なく、救いようがなく、人間として壊れて死んでいくかが、娘である著者の贖罪の意図もあるのか、だいぶしつこく淡々と、それゆえにとても残酷に描かれ続けるので、なんだかすごく、暗い気持ちになってしまった。この気持ちを晴らすには、たぶん泳ぐしかない。泳ぐしかないというのに。

2025/02/03

泳ぐという選択肢

 ホームプールが休館期間に入ってしまった。
 告知された予定期間は4月いっぱいまで。長い。
 その告知では、「会員の方は期限の延長処理をいたします」という文言も併記されていて、それはもちろん当然の話なのだが、1月中、入館時に何度も受付で会員カードを提示しているのに、いつまでも職員のほうから「延長処理しますね」という呼びかけがなく、ずいぶんやきもきさせられた。それで数日前、これが休館前の最後の来館になるかもしれないというタイミングで、とうとうこちらから、「延長処理をしてほしいんですが」と申し出たところ、「実はお知らせしている休館期間は目安であり、短くなるかもしれないし、逆に長引くかもしれないので、処理はそれに合わせて再開後になるのです」という返事で、それならそういう旨を書いておきなさいよ、言葉足らずだよ、と思ったが、もちろんそういう文句を面と向かって訴えるタイプではないので、「はあそうですか」と引き下がり、そしてこうしてブログに記した。たちがいいのか悪いのか我ながらよく分からない。
 とにかくそんなわけで、4月いっぱいとは言うものの、実は正確には定まっていないのだそうで、プラス思考、マイナス思考、捉え方は人それぞれだと思うが、僕はマイナスで捉えている。すなわち長引くような気がしている。去年も休館期間は平常時(2月のみ)よりも長かったのだ。それって年にいちどの1ヶ月程度の休館では出せない膿を出したということで、今後少なくとも5、6年はこういうことは起らないはずですよ、となるのが自然な流れだと思う。それが去年よりもさらに長く設定されているのだ。大丈夫かよ、と思う。ホームプール、移住者なので何年前からあるのか知らないが、もしかしてやばいのか。
 そんなふうに感じる伏線も実はあって、1月の後半、ボイラーの調子が悪いとかで、たびたびプールの水温が低かった。なにぶん大寒の時候である。いまが1年でいちばん寒いのだ。そんなときにボイラーが故障したのだ。もちろんそれも受付で告知がなされていたのだけど、実際に味わってみなければ分からないわけで、(そうは言っても水中で身体を動かしていれば熱を帯びるわけだしね)、などと考えて入水したところ、なるほどこれは無理なやつだ、となって早々に退散した日が何度かあった。ボイラーの故障がどれほど根深いものなのかは、利用者側からは察しようがないけれど、プール側はどうやら、なにしろ今月末限りで大規模なメンテナンス期間に入るのだからして、という判断をしたようで、月内にわざわざ修理をする気はないようであった。そんな感じで、もはや青息吐息の様相を呈しながら、ホームプールは休館期間へと突入したのだった。
 思い返せば、以前にも休館が半月ほど延びた年があり、そのとき僕は、それだけ大掛かりなことをするということは、なにか利用者にとって嬉しいリニューアルのようなことが行なわれるのだろうかと無邪気にも期待し、わざわざ電話を掛けて担当者に訊ねたりした。ちなみにその返答は、「内側の配管などの整備です」という、しゅんとなるものであった。今回、もはやそんなことは望まない。今ある形のままでいいから、施設が永く続いてくれればそれでいい。生きてくれているだけでいいんだ。もはやその境地だ。
 かくして泳げない日々が始まっている。開館時、毎日せっせと泳ぎに行っていたわけではない。けれど僕には毎日、泳ぎに行くか行かないかの選択肢が与えられていた。大事MANブラザーズバンドが「それが大事」で言っていたように、僕は泳げないのが哀しいんじゃなく、泳ぐという選択肢が生活から抜け落ちているのが哀しいのだと思う。なるべく早い開館を信じ抜きたいと思う。それがいちばん大事。

2025/01/11

水中界王星

 1月2日に3kmほどのランニングをしたところ、次の日に筋肉痛に襲われ、ちょっと驚いた。
 たしかにきちんと走るのは久しぶりだった。温暖な季節は一切やらなかったので、10ヶ月以上ぶりということになる。そう考えれば筋肉痛は自然なことのようにも思う。
 けれど僕は2024年の途中から、日々のプールで、だいぶウォーキングやランをするようになったのだ。泳ぐことももちろんするけれど、ひたすら泳ぐだけだと15分くらいで体力が尽きてしまうこともあり、入場したらまずしばらく歩くことにしたのだ。20分以上歩くと有酸素運動になって脂肪が燃焼されるという話を念頭に、だいたいそのくらい水の中を歩いたり走ったりしたあと、仕上げとして泳ぐというのが、最近のルーティンとなっていた(その賜物として、「腹、割れとったな」へとたどり着いたのだ)。
 であるからして、下半身方面の筋力もまた、それなりに鍛えられているものと捉えていたのだ。なにしろ僕の孤独のスイムウォークおよびスイムランは、自分勝手で、自由で、誰にも邪魔されず、気を遣わない孤高の行為であり、まず上半身は大胸筋を意識し、思いきり胸を張りながら腕を水中で動かし続けているし、下半身は一歩一歩踏ん張りつつ腿を上げることを心掛け、さらにその際に前傾になって腹と膝を近付けることによって貪欲に腹筋まで刺激しようとするという、たぶん傍目から見たらだいぶ異様な姿なのである。それをこれもまた異様な、来るたびに柄が違う、面積小さめのオリジナル型紙のスイムウェア姿で行なっているのである。そのように恥も外聞もかなぐり捨てて励んでいるのだから、相当なトレーニング効果が現れていることだろう、と。
 それだのに地上でのランニング、わずか3kmで途端に筋肉痛になった、という次第である。なんだか狐につままれたような気持ちになった。空気とは比べ物にならない抵抗の水中を進むのだから、それはまるでドラゴンボールの重力が大きい環境での修行のような、格別の成果が得られるに違いないと思っていた。
 でも考えてみたら、短距離にしろ長距離にしろ、地上のランナーたちがトレーニングで水中でのそれを行なっている、などという話は聞いたことがない。地上のランナーは、トレーニングでひたすら地上を走る。なぜか。
 それは水中で走ってもぜんぜん筋肉は鍛えられないからに他ならないのだ。抵抗が大きいのだからドラゴンボールでいう重力の大きい状態での修行みたいになるのではないかと書いたが、考えてみたら逆である。水中だから、むしろ重力が低いのだ。
 でも、じゃあ身体の重み自体は少なくなるにせよ、空気よりはるかに重い、水中での前に進む動きに対する抵抗は、あれはトレーニング効果的にどうなの、あるんでしょ、あるよ、実体験として感じるもの、あれが「特に大したものではないです」などと言われたらやってらんないよ、という話で、それはもちろん、あるのだと思う。そしてそれは、地上を走るときに使う筋肉とは、まったく異なる方面に作用しているのだろう。
 実際、筋肉痛に襲われた1月3日が、今年のホームプールの初開館日だったので、早速行って初泳ぎをしたわけだが、水中にいる間、前日に走って筋肉痛となっていることは、まったく頭の中から抜け落ちていた。なんの問題もなく、いつものプールルーティンをすることができた。そして家に帰って椅子に腰掛けようとしたら、足を曲げたときに「あ、そうだ俺、筋肉痛なんだった」と思い出したのだった。それくらい、水中と地上では使う筋肉が違うらしい。
 翻って思いを馳せるのは、2月からの3ヶ月間にも及ぶ休館期間のことだ。休館中、僕は仕方なく、プールほどの頻度になることはまずないが、たまにランニングをしたりするかもしれない。最初はまた筋肉痛になるだろうが、何度かやるうちに脚も慣れてくることだろう。そうやって休館中の糊口をしのぐつもりだが、しかしそれでトレーニングされる部分というのは、5月になって再開されたプールにおいて、なんの役にも立たないのだ。泳ぐ力は、泳ぐことでしか付かない。
 そう考えると長い休館は本当に悩ましい。間もなくやってくる休館期間のことに、予行で落ち込ませるような、そんな年始の出来事だった。

2024/12/29

2024年の水泳記録と来年のこと

 ホームプールの今年の営業が終了したので、同時に僕の今年の水泳も納まった。そのため去年からの慣習としている、今年の水泳回数を集計した。
 その結果が以下である。()内は2023年の記録。

   1月 5回(8)
   2月 2回(0)
   3月 2回(9)
   4月 11回(10)
   5月 5回(9)
   6月 9回(11)
   7月 5回(8)
   8月 7回(9)
   9月 11回(9)
   10月 8回(8)
   11月 5回(6)
   12月 6回(7)
   合計 76回(94)

 ホームプールは、毎年2月はメンテナンス休館として丸々1ヶ月お休みする。それが今年の場合、1月の中旬から3月いっぱいまでの2ヶ月半に拡張されたため、そこでのマイナス分が如実に響いたと言える。泳欲が高まり、普段は行くことのない少し遠方にあるプールに行ったりもしたが、焼け石に水であった。
 そんな事情だったので仕方がないとも言えるが、それでもやはり1年前の自分の数字に負けるのは悔しい。去年の94という数字は、365日に対して「4日に1回は泳いだ」ということが言える迫力があるけれど、今年の76は微妙だと思う。ゆるやかなペースだね、と言われたら反論できない。その程度の回数だ。
 来年こそは、と言いたいところなのだけど、なんと先日張り出された紙には、「今年は2月~4月いっぱいまでメンテナンス休館します」と書いてあって、大ショックを受けた。これはもう年間の数字どうこうの問題ではない。3ヶ月間プールから引き離されて、僕はちゃんと日常生活を健全に送れるだろうかという恐怖だ。泳ぐことで救われている精神の部分が、僕にはたしかにある。3ヶ月間、水泳という回復アイテムなしに、日々を乗り切れるのか、いまから不安でしょうがない。
 先ごろ、プールキャンセル界隈について書いた。12月もやはりなかなか泳ぐ気力は湧きづらかったのだけど、この時期のプールに行くことへの抵抗感は、実は寒さよりも日の短さに大きく原因があるのではないかと、あの記事を書いたあとに思った。11月や12月というのは、労働が終わったあとはどうしたってもう日が暮れてしまっている。それで萎える。日が長い時期だと、労働後のプールで、低い位置から放たれる西日が水面を照らし、あれが本当にいいのだ。この光った水を味わうために、僕はこの場所に来ているのかもしれない、とさえ思う。
 2月はもともとのメンテナンス月間だし、上旬などはまだ日もそこまで長くないので構わないけれど、3月と4月って、めちゃくちゃいい時期じゃんよ、と思う。世間的にプールのハイシーズンとされる7月や8月は、人が多いし、意外と日常生活の疲労感から泳ぐ体力が残っていなかったりして、案外行きづらかったりするわけで、この春先というのが、1年の中で本当に泳ぐのが心地いい時期であると思う。回数的にもここは大票田となっていて、今年の敗北は3月でのマイナス分に因るところが大きい。この2ヶ月が今年は丸々ないという。哀しい。基本的に気丈に生きているので、僕は滅多にこんな言葉を使わないけれど、告知を目にしたとき、絶望感というのを久々に抱いた。
 どうしても3ヶ月間やらなければならないのなら、12月~2月だろうと思うが、ファルマンに向かって切々とそんなことを愚痴っていたら、「業者の空きの都合とかもあるんだから」と冷静に諭された。ファルマンは出産まで設備系の会社に勤務していたので、そのあたりは理解が深いのである。まあね、はい、それはそうですけどもね。
 3ヶ月間も閉鎖して、いったいどんな作業を行なうのだろう。再開後、ユーザーにとって目に見えるような見返りがあったらいいが、たぶんないだろう。今年も2ヶ月半休んだわけだが、目に見えての変化はなくて拍子抜けした。まあ大規模な休館をしながらでも、近所にプールが存在、存続してくれることに、感謝をしなければならない。今年ホームプールで泳いだ70回あまりが、来年の3ヶ月間のことを不安にさせるほどに、僕の日々の精神に多大な安寧をもたらしてくれたのだから。今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2024/12/08

プールキャンセル界隈

 降雪を意識させるレベルの本格的な寒さがやってきたこの週末に、綱渡りのようなタイミングでタイヤの交換が成ったのだった。10月あたりにやった義父との打ち合わせで、第一希望は先週だったのだけど、そこは業者の予約が既にもう一杯とのことで、1週ずれ込んでの今週となっていた。そうしたら本当にギリギリだった。実家にやってきたいつもの業者さんは、雪の混じる寒風の吹きすさぶ中で、義父、義母、義妹、ファルマン、僕という5台の車の交換をしてくれた。料金を払っているとはいえ、なかなか恐縮する状況であった。
 先週にやってもらえていたらいろいろな意味で心は安らかであったろうと思うが、先週は先週で、僕自身が「振り返ってみればあれはインフルエンザ」的な体調不良の真っ只中であったため、やはりそれはそれで問題があった。
 斯様に、冬というのは過酷な季節である。夏は夏でしんどいけれど、それは過剰によるつらさであるため、どこか単純だ。それに対して冬のそれは過小、すなわち不足によるつらさであるため、精神的な方面、つまり寂しさや侘しさに直結する。塩化ビニルは熱で収縮するけれど、心は寒さで収縮するのだ。
 なにが言いたいのかと言うと、寒い季節の、プールに行く意欲のことである。
 行ったら行ったで、屋内プールは意外と暖かいということは分っているのだ。むしろ家に帰って家の風呂に入るより、案外ぬくいプールで身体を動かしたあと、熱いシャワーを浴びて身体を洗い、髪もその場でよく乾かして帰ったら、その日の風呂はそれで済むので、そのほうが寒い思いをせずに済むということも分っている。
 理屈として分ってはいるのだが、あまりにも寒い1日を過したあと、パンツ一丁という恰好で活動する自分があまりにもイメージできず、あり得ないと思ってしまい、とにかく家に帰って晩ごはんを食べよう、となってしまう。プールに気が向かない時期というのはどの季節のときにもあるけれど、冬はやっぱりそれが著しいと思う。今年っぽい表現をするならば、プールキャンセル界隈ということである。
 僕の場合、プールをキャンセルした場合、家できちんと風呂に入るのだから、衛生的にはなんの問題もないが、精神衛生的にはそこまでよろしくない。泳ぐことで救われる精神の部分があるからだ。
 疑インフルに見舞われた先週は、もちろんプールからは足が遠のいていた(平日なのに10時間くらい寝たりした)のだけど、昨日1週間以上ぶりに行ったところ、間が空いた新鮮さもあったろうが、やっぱり泳ぐのっていいな、としみじみと思ったのだった。冬は自分がパンツ一丁になることに現実味がなく理解が追いつかないと思っていたが、だからいいんじゃないか、と喝破した。考えてみたら夏は、家では常に水着みたいな姿だった。それが普段は厚着をせざるを得ない冬だからこそ、そこでだけは半裸のような恰好で活動することができるプールの価値が高まるのではないか、と。
 プールには運動と同時に、非日常感を味わいに行っているところがあるので、それはむしろ冬にこそ際立つのではないかと、そんなふうに自分に言い聞かせて、結局のところ「とは言え寒いから気が進まないよ!」とプールのキャンセルを試みがちな自分界隈を鼓舞している。

2024/11/20

2万年前の南フランスの湖で泳ぐときの恰好について

 Netflixでアニメ「T.Pぼん」を観ていたら、クロマニヨン人の少年を助けるべく2万年前の南フランスへと向かったぼんが、調査中にきれいな湖を見つけ、思わず喜んで水浴びをする、というシーンがあった。パートナーであるユミ子も一緒に来ており、ぼんは服を脱ぎながら「ひと泳ぎしようよ」と誘うのだが、「あたしはけっこうよ」と断られていた。それを受けてぼんは、特に拘泥する様子もなく、ひとりパンツ一丁になって湖に飛び込んでいた。
 2万年前の南フランスで、クロマニヨン人はいると言っても個体数は少なく、ほぼふたりきりの空間と言ってよい。ここまで暑いなか、見つからないコエロドンタを探してさまよっていたこともあり、鬱憤も溜まっていただろう。僕だったら、もう少し執拗にユミ子の参加を促す。他に誰もいないのだから。汗ばんでいるのだから。いいじゃないか、と。なにしろここは原始時代。社会規範? 公序良俗? そんな息苦しいものが出来てしまう前の世界なのだ。今だけは自分を解放して、欲望の赴くままに一緒にはめを外そうよ、と。
 実際、ユミ子はこのあと、ぼんがひとしきり泳ぎ終えて昼寝を始めると、こっそり泳ぐのである。意欲はあったのだ。それだけに惜しい、と思う。ぼん、そういうところだぞ、と。
 しかも泳ぐにあたり、ぼんがパンツを残していたのに対し、ユミ子は全裸になっている。これは、ぼんはユミ子に見られながら泳いでいたが、ユミ子は周囲に誰もいないのを確認した上で泳ぐことにしたからだ(実際には救助対象のクロマニヨン人の少年に目撃されるのだが)、というのもあるが、なんと言うか、いろいろ考えさせられる状況だ。
 ユミ子は下着を濡らしたくなかったのだ、というのはひとつの理由になると思う。たぶんF先生にこのあたりのことを問いかければ、そういう答えが返ってくるだろう。現代人としての矜持から、ビキニよろしく、ブラとショーツという姿で泳ぐのは簡単だ。でも泳いだあとどうなるのだ、という話だ。泳いだあとで、濡れた下着のままでいるわけにはいかず、全裸にならざるを得なくなり、またはるか未来を本拠とする組織とは思えないほど、ジェンダーを前面に出しているタイムパトロールの制服において、女性のそれはミニスカート仕様となっているので、今後の活動のことを思えば、やはりここはユミ子としては下着を濡らさない(そのために全裸になる)という選択が得策であることは間違いない。だから私はユミ子を全裸にしたわけで、そこにやましい気持ちなどは一切ないんだよ、とF先生はおっしゃる。F先生がそうおっしゃるのなら、われわれとしては押し黙るほかない。
 翻って、ぼんである。F先生、ぼんにはパンツを穿いたまま泳がせた。ユミ子の目があったこともあるが、中学生男子としては、やはりそれを脱がすわけにはいかなかった。「ドラえもん」の中で、同じような状況でジャイアンやスネ夫が全裸で泳ぎ、しずかちゃんが「やだっ」と言って顔を覆う、という場面があったように思う。ジャイアンは発育がよく、中学生に見紛うほどだが、そうは言っても小学生である。よってセーフだ。しかしぼんは中学生。男子中学生の全裸はアウトである。男子なら下着が濡れたって、そのあとノーパンでズボンを穿けばいいだけの話なのでさしたる問題ない。
 しかしぼんがこのとき穿いていたのは、まず間違いなく白ブリーフなのだった。F先生ご存命の時代(「T.Pぼん」の連載は1980年前後)、男子の下着というのは白ブリーフのほぼ一択だったろうと思われる。だとすれば、水に濡れた白ブリーフは、ぜんぜん透けただろ、ということも思う。ほぼほぼシースルーくらいの感じで、中身を浮かび上がらせたに違いないのだ。そしてぼんはそんな状態で、ユミ子の横までやってきて、大の字になって眠りにつくのである。それはもう一種の見せつけと言ってもいいのではないか、と思う。これを本当に無邪気にやっているのだとしたら、ぼんが心配になってくる。ぼんはまだ性に目覚めていないのかもしれない。あるいは、目覚めているのに無自覚なのかもしれない。危険だ。ぼんが本当に探すべきはコエロドンタではなく、小エロどん太なのではないかと思えてくる。
 小エロどん太ってなんだよ。

2024/11/16

更衣室でのやりとり

 もう2年以上前のことになるのだけど、会員となっているいつものプールの更衣室で着替えていた際、水着になるため全裸になった瞬間、すぐそばを通りかかった小学校高学年くらいの男子ふたり組が、通り過ぎたあとで、
「すげえでかかったな!」
「うん、でかかった!」
 と興奮した口調で語り合う、という出来事があった。
 他に周囲に人はいなかった。だからそれはタイミング的に、シチュエーション的に、僕の男性器について言っているのは明白だった。
 そうか、少年たちに憧れを抱かれるって、こういう気持ちなのか、こんなにも満たされた気持ちになるのかと、大谷翔平の気持ちが少し解ったような気がした、2022年で最も嬉しい出来事だった。
 今回、さすがにそこまでではないのだけど、類似する嬉しい出来事がったので記しておく。
 舞台は同じプール、同じ更衣室である。泳ぎ終え、更衣室に戻り、シャワーを浴びて、水着を乾かし、髪を乾かし、服を着て、さて帰ろうと更衣室出入口の靴置き場で、靴に足を収めようとしていた、その瞬間だ。ほぼ同じタイミングで更衣室を出ようとしていた、70代後半くらいのじいさんが、おもむろに声を掛けてきたのである。
「にいちゃん」
 ぎくっとした。咄嗟に、なにか注意されるのだ、と思った。常連のじいさんというのは往々にして、テリトリー意識が強いのか、自分にとっての快適空間を保つため、場の調和を乱す存在に対して偏狭だ。それはそれで必要な場面もあるのだけれど、暴走すると、施設の正式なルールでもなんでもない事柄まで周囲に強いたりするので厄介だ。これまでの人生でその手の被害に遭って精神を削られたことは何度かあり、またそれかと身構えた。
 ところがである。そのあと言葉はこう続いた。
「腹、割れとったな」
 え、嬉し、と思った。5年ほど前からプール習慣をはじめて、当初は鏡に映る自分の身体ののっぺりさ加減を疎ましく思ったものだったが、毎回見せつけられるその姿に奮起し、日々筋トレに勤しんだ結果、一朝一夕では実現しないような、なかなか引き締まった身体になっている。そういう自覚はあった。しかし自覚はあったけれど、確証はなかった。誰かが客観的に認めてくれたわけではなかったからだ。
 それがとうとう証明されたのだ。見知らぬじいさんによって。
「あ、ありがとうございます」
 と返事をした。
 するとじいさんは続けて、
「なに、やってんの?」
 と訊ねてきた。「なにかやってんの?」ではない。この人、なにか特別なことをやっているのかな、そうじゃないのかな、という揺らぎはそこにない。なんかしらのことを心掛けてやっている人間でなければどう考えたって到達できない次元だろその身体は、という思考が透けて見える言い回しだ。そういう細かい言い回しにこそ深層心理が出る。
 それに対して僕はどう答えたかと言えば、
「いや、そんな、別に、ただ痩せてるだけっすよ」
 と謙遜してみせた。急に知らない人に話しかけれられたことで、動揺していたのである。ブログでは朗々と語っておきながら、現実の対人スキルはこんなものだ。しかしここは得意げに、「日々筋トレに勤しみつつ、なるべく脂質が低く、かつたんぱく質のたくさん含まれた食事をするよう心掛けておりまして」などと説明するような場面ではないので、これで正解なのだと思う。前回は大谷翔平だったが、今回は、女優が肌の若さの秘訣を訊ねられ、「特別なことはなにもやっていません」と答える気持ちが分かった。
 立ち止まることはせず、僕がそこで靴を履き終えて歩き出したことで、やりとりは終わった。
 駐車場に向かって歩きながら、改めてじんわりと喜びがこみ上げてきた。2年前の小学生も、今回のじいさんも、たぶん何の気なしに思ったことを言っただけなんだろうが、他者からの賛辞というものは、こんなにも言われた相手をしあわせにするのか、と思った。僕もなるべく言っていきたい、世の中のしあわせの総数を高める存在になりたいと思うが、なかなか難しいとも思う。40歳くらいの男が、更衣室で急に「ちんこでかいっすね」などと話しかけてきたら、それはもう別の意味になってしまうと思う。

2024/11/01

序文

 水泳が趣味なので、水泳にまつわるあれこれを誰かと語り合えたら愉しいだろうと思うが、通っているプールで知り合いは作りたくないし、web上のコミュニティなんかは、探せばあるんだろうと思うが、たぶん全然おもしろくないに違いない。
 もっともこれは水泳に限らない。人づきあいが全般的に苦手なので、家族や親類以外と友好な関係を築くビジョンがまるでない。はっきり言って、他人のことが基本的に嫌いなのだ。他人の話に波長を合わせるのが苦手。すぐに拒否感が出てしまう。そんな人間が、誰かと愉しくなにかを語り合うことができるはずがない。
 でも、だからこそ水泳なんじゃないか、とも思う。水泳は基本的に孤独なスポーツだ。個人競技は他にもいろいろあるけれど、水泳ほど、周囲の人間とコミュニケーションを取る必要がない、そして取るのが困難なスポーツはあまりないと思う。なにしろ水中である。しゃべれないのだ。さらには、表情を読み取るのさえ難しい。そういう意味では、人づきあいが苦手な人間にうってつけの趣味だと言える。
 しかしその一方で、冒頭のような叶わぬ願望を抱いてしまう。でも趣味ってそういうものだろう。同好の士と、あるある話などで共感し合いたいではないか。
 そんなジレンマをずっと抱えていたわけだが、先日リン・シェール著「なぜ人間は泳ぐのか?」(太田出版)という、水泳にまつわるエッセー本を読んだことで、そうか、仲間がいなくたって、水泳のエッセーがあればそれでいいんだ、ということを喝破したのだった。
 しかしながら水泳のエッセー本なんて、この世にほとんどない。水泳をする人間は、どうも文章というものを書かないらしい。水中で息を止めすぎて、酸素が脳に届いていないのかもしれない。ならばいっそ自分で書いてしまおうと思った。そんな経緯でできたのがこのブログである。100年間で7人くらいの孤独なスイマーが、このブログを読んで、少しでも喜んでくれたらいいなと思う。ちなみに「pooling」には、「共有する」という意味があるそうだ。われわれはひとりぼっちだ。ひとりぼっちだという思いを分かち合おう。