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2025/12/30

2025年の水泳記録、そして大切な読者のみなさまへのお知らせ


 2025年のプールが納まる。果たして今年は何回プールに行ったのか。
 結果はこちらである。()内は2024年の記録。

 1月 9回(5)
 2月 0回(2)
 3月 1回(2)
 4月 0回(11)
 5月 12回(5)
 6月 9回(9)
 7月 9回(5)
 8月 6回(7)
 9月 5回(11)
 10月 7回(8)
 11月 7回(5)
 12月 4回(6)
 合計 69回(76)

 今年はメンテナンス休館が3ヶ月に及んだわりに、思ったほどガツンと低い数字ではなかったな、という印象だ。他にも、夏がヘロヘロすぎてなかなか行けなかったり、年の瀬になって気持ちが乗らずあまり行かなかった実感があったが、総計で見れば去年とそこまでの差は生まれなかったようである。あと単純に69という数字はそれだけで尊いので、そういう意味でも今年の数字に対して不満はない。今年もいいプールライフだったと言える。
 ちなみにだが、6月に申し込んだ半年会員が、この年末にちょうど切れた。なので新年からは、新たに入会を申し込まねばならない。しかしこの12月に4回しか行かなかったことを考えるにつけ、どうしたもんかな、と少し悩んでいる。さらに言えば、4回のうちの最後の1回は、昨日、今年のプール最終営業日に行ったのだが、労働終わりに行くわけではない今年最後のプールということで、気の済むまで存分に泳ごうと思っていたのに、いざ水の中に入ってみたら、冷たくて体がびっくりしたのか、パフォーマンスがとても悪く、気持ちよく泳げなくて、それどころか帰宅後もしばらく怠くなってしまったのだった。たまたまだとは思いつつも、これで本当に体を壊したりしたら、冬にプールに行くなんて信じられない、と常々言っているファルマンから、どれほどの批判を受けることかと思うと、2月の休館期間(今年は特に告知がないので久々に元来の1ヶ月間だけの休館のようだ)に入るまでの1ヶ月間、会員になるのは見合わせてもいいかもな、というふうに思っている。
 しかしそれはそれとして、プールは今年も僕の暮しに多大な安寧をもたらしてくれたのは確かだ。手作りの水着を実践する場としての機能もあり、今後もかけがえのない趣味として長く続けていこうと思っている。少なくとも3月からは会員になることは間違いない。そして2026年も愉しいプールライフを送りたいと思う。
 そして区切りよく、ここでこのブログを読んでくれている人に報告がある。
 去年から始まった「swimming pooling」、突然だが、今回が最終回である。約1年間、パピロウのプールライフにまつわるあれこれを綴るために存在していたブログだったが、このたびその役割を終え、幕を閉じる運びとなった。ブログというのは、あるとき明確にその役割を終えるのだ。ブログって、そうなのだ。ブログってほら、例のあれと例のあれを、繰り返すものですからね。次の展開をお愉しみに!

2025/05/17

プーリングライフの再開


 休館で泳げていない嘆きをさんざんしたくせに、いざ5月に入り、実際にプールライフが再開したら、半月以上なんの報告もしないという身勝手さ。でもこれは典型的な、便りがないのがいい便りというやつで、回数を数えたところ、昨日までで8回泳ぎに行っていた。泳いでばかりいたので、泳ぐことに関する文章なんてぜんぜん書く気にならなかったのだ。
 泳ぐのはやっぱりいい。人って日常生活の中で、立つ(歩く・走る)、座る、寝るくらいしか行動の選択肢がないわけで、そこに泳ぐが加わると、体がその新鮮さに喜ぶのを感じる。大袈裟に言えば、三次元だったものが四次元になっているような感じ。嬉しい。
 休館中にしこしこと作っていた新パターンの水着たちも、ようやく水着としての本懐を遂げることができた。これもとてもめでたく思っている。穿き心地、泳ぎ心地は、旧パターンのものとそう変わるわけではないが、なんと言ってもこちらの意識が違う。
 ちなみにこれは余談だが、水着を作ったあとの余り布で実は水泳帽も作っているのだけど、型紙の置き方の都合上、「水着4枚分の生地を裁ったあと、さらに水泳帽の生地が取れるのは、柄に上下の区別がないものに限られる」という条件があって、そのため保有している新パターン水着には、共布の水泳帽があるものとないものがあり、これまで水泳帽を自作していなかった頃は、日々多彩な柄の水着を穿きながら、水泳帽は黒か紺のどちらか、というスタイルで、別になんの不満もなかったのに、一部セットアップが成立してしまった時点から、そうではない日、水着と水泳帽がお揃いでないということに、微妙に忸怩たる思いを抱くようになってしまい、もちろんぜんぜん深刻な話ではないのだが、人の向上心とか欲望というのは果てがないものなのだな、という淡いやるせなさみたいなものを実感している。かなり特殊な実感だと我ながら思う。
 あともうひとつ懸念していることがあって、休館前には一切そんな気配はなかったのに、再開後から、知り合いと思われるひとりの人物の姿を2回見かけてしまい、動揺している。前の職場の、わりと年齢が近い男である。もちろん遠くに姿を見かけた瞬間に、さっと身を潜めたので、接触はしていない。地元ではない、知り合いがいない気楽さから、面積の小さい、自作の、まあまあ奇抜なデザインの日替わり水着で、大胸筋のトレーニングを意識したオリジナルのウォーキングをするという、のびのびした振る舞いをしているわけで、ここに知り合いの存在が生じると、一気に居心地が悪くなってくる。2回見かけたということは、まさか会員になったのだろうか。嫌だな。辞めてほしいな。プールなんて辞めろよ。飽きろよ。面倒なばっかりで、そんないいもんじゃねえよ。
 まあだいたいそんな感じで、プールライフが再開している。時間や社会に囚われず、幸福にプールで過すとき、つかの間、僕は自分勝手になり、自由になるのだと思う。

2025/04/26

いよいよプール

 4月がそろそろ終わりかけていて、であるからして、ホームプールの再開がいよいよ近いのだった。
 3ヶ月である。本当に長かった。この3ヶ月の間、いちどだけおろち湯ったり館で泳いだ以外は、本当に泳ぐことなく暮した。ただでさえ気持ちが落ち込みがちな、山陰の冬である。特に今年は寒さがしつこく、3月は必死で春の気配を感じ取ろうとするのに、そのたびに無碍に裏切られ、精神をズタズタにされる、ということを繰り返した。その3月が終わり、ようやくきちんと暖かくなっても、まだプールは開かなかった。世界から心の強さを試されているのだろうか、と思った。
 思えば自傷行為のようだったが、休館中に読んだ「スイマーズ」という本に引っ張られた部分も大きい。日々通うことで得ていたプールの効用を失ったからには、その分のダメージが襲い掛かってくるのが道理であるという、そんな観念もあったように思う。
 しかしこれはあながち大袈裟でもなく、この超高齢化社会である島根のプールにおいて、きわめて高い比率の老人スイマーたち、あれらは果たしてこの3ヶ月間を、誰ひとり欠けることなく耐え抜いただろうか。3ヶ月でどっと老化が進行した、みたいなパターンも十分に考えられる。マグロは止まったら息が出来なくて死ぬらしいけれど、スイマーもまたそれに近い性質を持っているような気がする。
 この3ヶ月間が始まる前、3ヶ月泳げないんなら、その代わりにランニングをするほかあるまいなあ、と考えていた。しかし結果的には、3ヶ月で本当にいちどもしなかった。ただでさえ寒くて暗くて生きるのがつらいのに、その上ランニングなんかするはずないだろ、というどこまでも真っ当な理由によってだ。ランニングは、運動としては水泳の代替になるのかもしれないが(使う筋肉はぜんぜん違うけど)、僕は別に運動のためにプールに行っているんじゃないのだな、と再認識した。
 ところで、まるで泳げなかった3ヶ月間に、僕はいったい何枚の水着を作っただろう。40~50枚くらいはざっと作っていると思う。新パターンを生み出し、量産したが、実はいちども実地での試用をしていないのだった。これで泳いだ瞬間に構造上の欠陥が発見されたら悲劇である。まさかそんなことはないだろうが。
 休館は、期間に入る前、「早まるかもしれないし遅くなるかもしれない」などと濁されたが、最近になって更新されたホームページでの告知を見る限り、当初の予告通り5月から営業は再開されるようだ。それはいいのだが、3ヶ月も間が空いたのだから、ラマダンのように、明ける際は盛大にお祝いしたっていいんじゃないか、と思う。あるいは会員を特別扱いして、会員限定のプレオープンなどしてくれたって罰は当たらないと思う。しかしそんな様子は一切ない。やはりホームプールは会員にちょっと冷たい。でもそこが心地いい。
 とにもかくにもあと数日だ。本当の意味でようやく冬が終わる。

2025/03/23

泳げなくて春

 おろち湯ったり館へ行き、久しぶりにプールにありついたのだった。ホームプール閉鎖前の1月下旬以来なので、実に約2ヶ月ぶりである。
 別のブログにも書いたが、先週仕事の用件で鳥取市に行く機会があって、その日は16時くらいで解放されるスケジュールだったので、島根に帰る道すがら、倉吉市にあるという温水プールに立ち寄るという計画を立てていた。初めて行く街の、初めて行くプール。仕事の用件のことなんかそっちのけで、気持ちが盛り上がっていた。しかし実際に当日になり、まあまあ朝早くに出発して鳥取市まで車を走らせたら、なんかもうじっとりと疲れてしまい、帰りにまた同じ距離を走って帰るのに、その途中でプールなぞ……、となって実現しなかったのだった。僕が今生で倉吉市の市民プールに行く機会は、これが唯一のものであった可能性が高い。そう考えればちょっと無理してでも行くべきだったような気もするし、やっぱりあのときは、翌日は普通に出勤だったし、あきらめて正解だったとも思う。
 そんな残念な出来事も経て、とうとう叶った2ヶ月ぶりの遊泳であった。その首尾はどうだったかといえば、もちろん気持ちよかったけれど、かき立てまくっていた思いを十全に満足させるほどの喜びは、正直言って得られなかった。
 たぶんこれは、この2ヶ月間で僕のプール回路が閉じているのが原因だろうと思う。水泳って、水泳に限ったことではないが、間を空けて、ある瞬間に一気にやって大きな感動があるタイプの行為ではなく、習慣として定期的にやっていると、だんだん回路が太くなって、それが保たれている間はずっと心身の状態が底上げされるような、そういう行為なのではないかと思った。だから尊いのだとも。
 そんなわけで、ますますホームプールの再開が待ち遠しくなったのだけど、ちょうどつい先日、ホームプールからハガキが届いたのである。それは、『2月から4月いっぱいまでプールは工事で閉鎖するから、その期間が会員期限に含まれる人は再開後に会員カードを持って来館してくださいね、延長しますからね』という内容で、思わず、「お、おん……」となった。2月から閉鎖していて、そしてやっぱり閉鎖期間が短くなるということは決してなさそうなプールから、3月下旬に届くその連絡。なんだかトボケている。トボケているというか、ちょっと会員の扱いがさすがに雑なのではないかと、声高に叫ぶわけではないが、少しもやっとしたものを抱いた。もっとも顧客満足度が高い、ユーザーにとって快適な空間作りに尽力しているような場って、そこに愛着を持つ人々が群がるせいで、逆に居心地が悪くなるので、このくらいぞんざいなほうが逆にいいかもしれないな、などとも思う。めんどくせえ顧客だな。
 季節はすっかり春になった。子どもたちは春休みだが、プールは開かない。春休みの営業をすっぱりあきらめるってすごいな、さすがは公営だな、と思う。もっとも子どもたちなんか別にどうでもいいのだ。プールの真の情趣って、たまに行ってはしゃぐ、そういう接し方をしたって決して得られない。ストイックに、それがまるで日々の勤めであるかのように、中高年が黙々と歩いたり泳いだりする、そういうところにあるのだ。だから本音を言えば子どもなんかなるべく来てほしくない。このめんどくせえ顧客は、さらに老害でもあった。もはや救いようがない。早く自由に泳ぎたい。

2025/02/08

ジュリー・オオツカ著「スイマーズ」を読んで

 「スイマーズ」という小説を読んだ。
 タイトルや表紙から、プールと水泳にまつわる話だろうと当て込んで読み、まあ序盤はだいたいその通りで、書き方にだいぶ癖はあったものの、それなりに愉しく読んだ。
 本のカバー見返しにあるあらすじはこうである。

 必死で泳いでいると、束の間日常生活の悩みを忘れることができる。そのために、ほとんど依存といってよいほどに公営プールに通い詰める人々がいる。ある日、プールの底に原因不明のひびが入ったことから、スイマーたちは戸惑い、しだいにその生活と精神に不調があらわれはじめる。そのうちのひとり、力強く泳いでいたアリスの認知症は自分の名前を思い出せないほどに進行する……。ひとりの人間の過ごした時間の断片を、現代を生きる我々の喜びと苦しみに共有させる傑作中編小説。

 序盤は本当に、プールを舞台にした、群像劇的な、「あるある」なんかも織り交ぜられた、ちょっとだけ特殊なエンターテインメント小説、という感触だったのだ。なにしろ僕自身、会員となって日々プールに通っているため、その内容には格別の臨場感があった。
 通っていると、特にオフシーズンなんかは会員の濃度が高まるし、行くのはどうしたって同じような時間帯になるので、見知った顔が多くなってくる。ただしこの小説の中のプール会員たちと違って、僕は他の会員と交流することは一切ないけれど。
 物語では、プールの底に謎のひびが入ったことで、プールは無期限の休館となる。これもまた、2月から春休みまでをも含む3ヶ月間のメンテナンス休館を告げられた自らの状況と共通する。登場人物たちと一緒で、僕もなかなか現実を受け入れられなかった。3ヶ月もプール通いを奪われて、果たして僕は大丈夫なんだろうか、という不安に襲われた。
 それはたぶん、行くたびに顔を見かける常連の輩もそうだっただろうと思う。僕と同じで、他の会員とまったく交流しない会員だってもちろんいるだろうが、そうではない、更衣室で挨拶を交わし、大きな声で世間話をする彼らは、当然3ヶ月間の休みについての懊悩を、互いに語り合ったろうと思う。前回の記事に書いたように、休館前の最後の来館時に会員期限のことをやってもらおうとして、3ヶ月というのがあくまで予定だということを告げられるといった、情弱さを痛感するような出来事があったこともあり、大規模休館というのはプールにおいて有事ということになるが、平時のときはのうのうと、与えられた権利を掠めとるように生きればいいけれど、有事になると積極的な集団との繋がり、そしてそこから得られる情報がものを言うのだという、まるで戦渦に在るかのような気分になったのだった。僕も同じ境遇の人と、不安を打ち明け合い、情報を得たかった。
 プール休館問題に限らず、僕には話し相手というものが、基本的に妻であるファルマンしかいないのだが、ファルマンにプールの休館についての嘆きを聞かせるほど無駄なことはない。ファルマンは2年ほど前、個人会員ではなく家族会員のほうがトータルでは安上がりになるのではないかと考え申し込んだ、1年間の家族会員期間に、とうとういちども近所のプールに入ることなく会員期間を終えたというくらい、プールに興味がないのだ。
 さまざまな葛藤、あるいは達観をして、物語のプールはいよいよ閉鎖の時を迎える。それは本全体の半分にもならない、5分の2くらいの所で、ここから話は、著者の母親がモデルなのだろうアリスという女性の認知症の進行、それにまつわる周囲のあれこれが、すべてになる。これ以降、プールの話はまったく出てこない。ひびが直り、プールが再開するなどという描写はない。アリスはベラヴィスタという介護施設に入り、もちろんそこから出ることなく、人生を終える。
 生きがいであったプール通いが奪われてアリスの認知症は加速してしまったのだというふうに考えたら、超高齢化社会である日本の中でも有数の高・高齢者比率である島根県にあるプールの大型休館というのも、他人事ではないというか、あの老人たちがこの小説を読んだらどう思うだろう、という話である。ともすれば3ヶ月後、プールに帰還しない老人だっているかもしれない。
 あるいは先ほどプールの大型休館を、有事であり、戦渦に巻き込まれるような状態に近いと書いたが、物語の中のプールは、すなわちアリスの脳のメタファーなのであり、そこに認知症という原因不明のひびが生じたことにより、それまでの日々が失われる(ひびと日々を掛けているので上手い)という、この物語とはつまりそういう仕組みになっていると考えれば、老朽化によって、内部の管などにさまざまな問題が生じ、ここ数年やけにメンテナンス休館の期間が拡張しがちな、そして高齢者の比率が極めて高い島根県のプールという現実を考えるにつけ、とても身につまされるというか、このどんどんGDPが下がって、出生率が下がり、老人ばかりが増えて人口が減少する日本のこの時勢において、現存するプールが保てなくなったら、新しくプールが造られるビジョンは到底見えず、たぶん今の高齢者が生きている間は、プールも、年金も、ぎりぎり持つけれど、それがなくなって、いまの中年、つまり僕だけど、それが高齢者になったとき、この世にプールはなく、国庫にプールされている蓄えもなく(また上手い)、いったいなにをよすがに生きていくのだろう、などと思う。
 話のモチーフが、あまりにも身近であったために、こんなにも感じ入って、後半部である全体の5分の3は、アリスがどれほど切なく、救いようがなく、人間として壊れて死んでいくかが、娘である著者の贖罪の意図もあるのか、だいぶしつこく淡々と、それゆえにとても残酷に描かれ続けるので、なんだかすごく、暗い気持ちになってしまった。この気持ちを晴らすには、たぶん泳ぐしかない。泳ぐしかないというのに。

2025/02/03

泳ぐという選択肢

 ホームプールが休館期間に入ってしまった。
 告知された予定期間は4月いっぱいまで。長い。
 その告知では、「会員の方は期限の延長処理をいたします」という文言も併記されていて、それはもちろん当然の話なのだが、1月中、入館時に何度も受付で会員カードを提示しているのに、いつまでも職員のほうから「延長処理しますね」という呼びかけがなく、ずいぶんやきもきさせられた。それで数日前、これが休館前の最後の来館になるかもしれないというタイミングで、とうとうこちらから、「延長処理をしてほしいんですが」と申し出たところ、「実はお知らせしている休館期間は目安であり、短くなるかもしれないし、逆に長引くかもしれないので、処理はそれに合わせて再開後になるのです」という返事で、それならそういう旨を書いておきなさいよ、言葉足らずだよ、と思ったが、もちろんそういう文句を面と向かって訴えるタイプではないので、「はあそうですか」と引き下がり、そしてこうしてブログに記した。たちがいいのか悪いのか我ながらよく分からない。
 とにかくそんなわけで、4月いっぱいとは言うものの、実は正確には定まっていないのだそうで、プラス思考、マイナス思考、捉え方は人それぞれだと思うが、僕はマイナスで捉えている。すなわち長引くような気がしている。去年も休館期間は平常時(2月のみ)よりも長かったのだ。それって年にいちどの1ヶ月程度の休館では出せない膿を出したということで、今後少なくとも5、6年はこういうことは起らないはずですよ、となるのが自然な流れだと思う。それが去年よりもさらに長く設定されているのだ。大丈夫かよ、と思う。ホームプール、移住者なので何年前からあるのか知らないが、もしかしてやばいのか。
 そんなふうに感じる伏線も実はあって、1月の後半、ボイラーの調子が悪いとかで、たびたびプールの水温が低かった。なにぶん大寒の時候である。いまが1年でいちばん寒いのだ。そんなときにボイラーが故障したのだ。もちろんそれも受付で告知がなされていたのだけど、実際に味わってみなければ分からないわけで、(そうは言っても水中で身体を動かしていれば熱を帯びるわけだしね)、などと考えて入水したところ、なるほどこれは無理なやつだ、となって早々に退散した日が何度かあった。ボイラーの故障がどれほど根深いものなのかは、利用者側からは察しようがないけれど、プール側はどうやら、なにしろ今月末限りで大規模なメンテナンス期間に入るのだからして、という判断をしたようで、月内にわざわざ修理をする気はないようであった。そんな感じで、もはや青息吐息の様相を呈しながら、ホームプールは休館期間へと突入したのだった。
 思い返せば、以前にも休館が半月ほど延びた年があり、そのとき僕は、それだけ大掛かりなことをするということは、なにか利用者にとって嬉しいリニューアルのようなことが行なわれるのだろうかと無邪気にも期待し、わざわざ電話を掛けて担当者に訊ねたりした。ちなみにその返答は、「内側の配管などの整備です」という、しゅんとなるものであった。今回、もはやそんなことは望まない。今ある形のままでいいから、施設が永く続いてくれればそれでいい。生きてくれているだけでいいんだ。もはやその境地だ。
 かくして泳げない日々が始まっている。開館時、毎日せっせと泳ぎに行っていたわけではない。けれど僕には毎日、泳ぎに行くか行かないかの選択肢が与えられていた。大事MANブラザーズバンドが「それが大事」で言っていたように、僕は泳げないのが哀しいんじゃなく、泳ぐという選択肢が生活から抜け落ちているのが哀しいのだと思う。なるべく早い開館を信じ抜きたいと思う。それがいちばん大事。

2025/01/11

水中界王星

 1月2日に3kmほどのランニングをしたところ、次の日に筋肉痛に襲われ、ちょっと驚いた。
 たしかにきちんと走るのは久しぶりだった。温暖な季節は一切やらなかったので、10ヶ月以上ぶりということになる。そう考えれば筋肉痛は自然なことのようにも思う。
 けれど僕は2024年の途中から、日々のプールで、だいぶウォーキングやランをするようになったのだ。泳ぐことももちろんするけれど、ひたすら泳ぐだけだと15分くらいで体力が尽きてしまうこともあり、入場したらまずしばらく歩くことにしたのだ。20分以上歩くと有酸素運動になって脂肪が燃焼されるという話を念頭に、だいたいそのくらい水の中を歩いたり走ったりしたあと、仕上げとして泳ぐというのが、最近のルーティンとなっていた(その賜物として、「腹、割れとったな」へとたどり着いたのだ)。
 であるからして、下半身方面の筋力もまた、それなりに鍛えられているものと捉えていたのだ。なにしろ僕の孤独のスイムウォークおよびスイムランは、自分勝手で、自由で、誰にも邪魔されず、気を遣わない孤高の行為であり、まず上半身は大胸筋を意識し、思いきり胸を張りながら腕を水中で動かし続けているし、下半身は一歩一歩踏ん張りつつ腿を上げることを心掛け、さらにその際に前傾になって腹と膝を近付けることによって貪欲に腹筋まで刺激しようとするという、たぶん傍目から見たらだいぶ異様な姿なのである。それをこれもまた異様な、来るたびに柄が違う、面積小さめのオリジナル型紙のスイムウェア姿で行なっているのである。そのように恥も外聞もかなぐり捨てて励んでいるのだから、相当なトレーニング効果が現れていることだろう、と。
 それだのに地上でのランニング、わずか3kmで途端に筋肉痛になった、という次第である。なんだか狐につままれたような気持ちになった。空気とは比べ物にならない抵抗の水中を進むのだから、それはまるでドラゴンボールの重力が大きい環境での修行のような、格別の成果が得られるに違いないと思っていた。
 でも考えてみたら、短距離にしろ長距離にしろ、地上のランナーたちがトレーニングで水中でのそれを行なっている、などという話は聞いたことがない。地上のランナーは、トレーニングでひたすら地上を走る。なぜか。
 それは水中で走ってもぜんぜん筋肉は鍛えられないからに他ならないのだ。抵抗が大きいのだからドラゴンボールでいう重力の大きい状態での修行みたいになるのではないかと書いたが、考えてみたら逆である。水中だから、むしろ重力が低いのだ。
 でも、じゃあ身体の重み自体は少なくなるにせよ、空気よりはるかに重い、水中での前に進む動きに対する抵抗は、あれはトレーニング効果的にどうなの、あるんでしょ、あるよ、実体験として感じるもの、あれが「特に大したものではないです」などと言われたらやってらんないよ、という話で、それはもちろん、あるのだと思う。そしてそれは、地上を走るときに使う筋肉とは、まったく異なる方面に作用しているのだろう。
 実際、筋肉痛に襲われた1月3日が、今年のホームプールの初開館日だったので、早速行って初泳ぎをしたわけだが、水中にいる間、前日に走って筋肉痛となっていることは、まったく頭の中から抜け落ちていた。なんの問題もなく、いつものプールルーティンをすることができた。そして家に帰って椅子に腰掛けようとしたら、足を曲げたときに「あ、そうだ俺、筋肉痛なんだった」と思い出したのだった。それくらい、水中と地上では使う筋肉が違うらしい。
 翻って思いを馳せるのは、2月からの3ヶ月間にも及ぶ休館期間のことだ。休館中、僕は仕方なく、プールほどの頻度になることはまずないが、たまにランニングをしたりするかもしれない。最初はまた筋肉痛になるだろうが、何度かやるうちに脚も慣れてくることだろう。そうやって休館中の糊口をしのぐつもりだが、しかしそれでトレーニングされる部分というのは、5月になって再開されたプールにおいて、なんの役にも立たないのだ。泳ぐ力は、泳ぐことでしか付かない。
 そう考えると長い休館は本当に悩ましい。間もなくやってくる休館期間のことに、予行で落ち込ませるような、そんな年始の出来事だった。

2024/12/29

2024年の水泳記録と来年のこと

 ホームプールの今年の営業が終了したので、同時に僕の今年の水泳も納まった。そのため去年からの慣習としている、今年の水泳回数を集計した。
 その結果が以下である。()内は2023年の記録。

   1月 5回(8)
   2月 2回(0)
   3月 2回(9)
   4月 11回(10)
   5月 5回(9)
   6月 9回(11)
   7月 5回(8)
   8月 7回(9)
   9月 11回(9)
   10月 8回(8)
   11月 5回(6)
   12月 6回(7)
   合計 76回(94)

 ホームプールは、毎年2月はメンテナンス休館として丸々1ヶ月お休みする。それが今年の場合、1月の中旬から3月いっぱいまでの2ヶ月半に拡張されたため、そこでのマイナス分が如実に響いたと言える。泳欲が高まり、普段は行くことのない少し遠方にあるプールに行ったりもしたが、焼け石に水であった。
 そんな事情だったので仕方がないとも言えるが、それでもやはり1年前の自分の数字に負けるのは悔しい。去年の94という数字は、365日に対して「4日に1回は泳いだ」ということが言える迫力があるけれど、今年の76は微妙だと思う。ゆるやかなペースだね、と言われたら反論できない。その程度の回数だ。
 来年こそは、と言いたいところなのだけど、なんと先日張り出された紙には、「今年は2月~4月いっぱいまでメンテナンス休館します」と書いてあって、大ショックを受けた。これはもう年間の数字どうこうの問題ではない。3ヶ月間プールから引き離されて、僕はちゃんと日常生活を健全に送れるだろうかという恐怖だ。泳ぐことで救われている精神の部分が、僕にはたしかにある。3ヶ月間、水泳という回復アイテムなしに、日々を乗り切れるのか、いまから不安でしょうがない。
 先ごろ、プールキャンセル界隈について書いた。12月もやはりなかなか泳ぐ気力は湧きづらかったのだけど、この時期のプールに行くことへの抵抗感は、実は寒さよりも日の短さに大きく原因があるのではないかと、あの記事を書いたあとに思った。11月や12月というのは、労働が終わったあとはどうしたってもう日が暮れてしまっている。それで萎える。日が長い時期だと、労働後のプールで、低い位置から放たれる西日が水面を照らし、あれが本当にいいのだ。この光った水を味わうために、僕はこの場所に来ているのかもしれない、とさえ思う。
 2月はもともとのメンテナンス月間だし、上旬などはまだ日もそこまで長くないので構わないけれど、3月と4月って、めちゃくちゃいい時期じゃんよ、と思う。世間的にプールのハイシーズンとされる7月や8月は、人が多いし、意外と日常生活の疲労感から泳ぐ体力が残っていなかったりして、案外行きづらかったりするわけで、この春先というのが、1年の中で本当に泳ぐのが心地いい時期であると思う。回数的にもここは大票田となっていて、今年の敗北は3月でのマイナス分に因るところが大きい。この2ヶ月が今年は丸々ないという。哀しい。基本的に気丈に生きているので、僕は滅多にこんな言葉を使わないけれど、告知を目にしたとき、絶望感というのを久々に抱いた。
 どうしても3ヶ月間やらなければならないのなら、12月~2月だろうと思うが、ファルマンに向かって切々とそんなことを愚痴っていたら、「業者の空きの都合とかもあるんだから」と冷静に諭された。ファルマンは出産まで設備系の会社に勤務していたので、そのあたりは理解が深いのである。まあね、はい、それはそうですけどもね。
 3ヶ月間も閉鎖して、いったいどんな作業を行なうのだろう。再開後、ユーザーにとって目に見えるような見返りがあったらいいが、たぶんないだろう。今年も2ヶ月半休んだわけだが、目に見えての変化はなくて拍子抜けした。まあ大規模な休館をしながらでも、近所にプールが存在、存続してくれることに、感謝をしなければならない。今年ホームプールで泳いだ70回あまりが、来年の3ヶ月間のことを不安にさせるほどに、僕の日々の精神に多大な安寧をもたらしてくれたのだから。今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。