2024/11/20

2万年前の南フランスの湖で泳ぐときの恰好について

 Netflixでアニメ「T.Pぼん」を観ていたら、クロマニヨン人の少年を助けるべく2万年前の南フランスへと向かったぼんが、調査中にきれいな湖を見つけ、思わず喜んで水浴びをする、というシーンがあった。パートナーであるユミ子も一緒に来ており、ぼんは服を脱ぎながら「ひと泳ぎしようよ」と誘うのだが、「あたしはけっこうよ」と断られていた。それを受けてぼんは、特に拘泥する様子もなく、ひとりパンツ一丁になって湖に飛び込んでいた。
 2万年前の南フランスで、クロマニヨン人はいると言っても個体数は少なく、ほぼふたりきりの空間と言ってよい。ここまで暑いなか、見つからないコエロドンタを探してさまよっていたこともあり、鬱憤も溜まっていただろう。僕だったら、もう少し執拗にユミ子の参加を促す。他に誰もいないのだから。汗ばんでいるのだから。いいじゃないか、と。なにしろここは原始時代。社会規範? 公序良俗? そんな息苦しいものが出来てしまう前の世界なのだ。今だけは自分を解放して、欲望の赴くままに一緒にはめを外そうよ、と。
 実際、ユミ子はこのあと、ぼんがひとしきり泳ぎ終えて昼寝を始めると、こっそり泳ぐのである。意欲はあったのだ。それだけに惜しい、と思う。ぼん、そういうところだぞ、と。
 しかも泳ぐにあたり、ぼんがパンツを残していたのに対し、ユミ子は全裸になっている。これは、ぼんはユミ子に見られながら泳いでいたが、ユミ子は周囲に誰もいないのを確認した上で泳ぐことにしたからだ(実際には救助対象のクロマニヨン人の少年に目撃されるのだが)、というのもあるが、なんと言うか、いろいろ考えさせられる状況だ。
 ユミ子は下着を濡らしたくなかったのだ、というのはひとつの理由になると思う。たぶんF先生にこのあたりのことを問いかければ、そういう答えが返ってくるだろう。現代人としての矜持から、ビキニよろしく、ブラとショーツという姿で泳ぐのは簡単だ。でも泳いだあとどうなるのだ、という話だ。泳いだあとで、濡れた下着のままでいるわけにはいかず、全裸にならざるを得なくなり、またはるか未来を本拠とする組織とは思えないほど、ジェンダーを前面に出しているタイムパトロールの制服において、女性のそれはミニスカート仕様となっているので、今後の活動のことを思えば、やはりここはユミ子としては下着を濡らさない(そのために全裸になる)という選択が得策であることは間違いない。だから私はユミ子を全裸にしたわけで、そこにやましい気持ちなどは一切ないんだよ、とF先生はおっしゃる。F先生がそうおっしゃるのなら、われわれとしては押し黙るほかない。
 翻って、ぼんである。F先生、ぼんにはパンツを穿いたまま泳がせた。ユミ子の目があったこともあるが、中学生男子としては、やはりそれを脱がすわけにはいかなかった。「ドラえもん」の中で、同じような状況でジャイアンやスネ夫が全裸で泳ぎ、しずかちゃんが「やだっ」と言って顔を覆う、という場面があったように思う。ジャイアンは発育がよく、中学生に見紛うほどだが、そうは言っても小学生である。よってセーフだ。しかしぼんは中学生。男子中学生の全裸はアウトである。男子なら下着が濡れたって、そのあとノーパンでズボンを穿けばいいだけの話なのでさしたる問題ない。
 しかしぼんがこのとき穿いていたのは、まず間違いなく白ブリーフなのだった。F先生ご存命の時代(「T.Pぼん」の連載は1980年前後)、男子の下着というのは白ブリーフのほぼ一択だったろうと思われる。だとすれば、水に濡れた白ブリーフは、ぜんぜん透けただろ、ということも思う。ほぼほぼシースルーくらいの感じで、中身を浮かび上がらせたに違いないのだ。そしてぼんはそんな状態で、ユミ子の横までやってきて、大の字になって眠りにつくのである。それはもう一種の見せつけと言ってもいいのではないか、と思う。これを本当に無邪気にやっているのだとしたら、ぼんが心配になってくる。ぼんはまだ性に目覚めていないのかもしれない。あるいは、目覚めているのに無自覚なのかもしれない。危険だ。ぼんが本当に探すべきはコエロドンタではなく、小エロどん太なのではないかと思えてくる。
 小エロどん太ってなんだよ。

2024/11/16

更衣室でのやりとり

 もう2年以上前のことになるのだけど、会員となっているいつものプールの更衣室で着替えていた際、水着になるため全裸になった瞬間、すぐそばを通りかかった小学校高学年くらいの男子ふたり組が、通り過ぎたあとで、
「すげえでかかったな!」
「うん、でかかった!」
 と興奮した口調で語り合う、という出来事があった。
 他に周囲に人はいなかった。だからそれはタイミング的に、シチュエーション的に、僕の男性器について言っているのは明白だった。
 そうか、少年たちに憧れを抱かれるって、こういう気持ちなのか、こんなにも満たされた気持ちになるのかと、大谷翔平の気持ちが少し解ったような気がした、2022年で最も嬉しい出来事だった。
 今回、さすがにそこまでではないのだけど、類似する嬉しい出来事がったので記しておく。
 舞台は同じプール、同じ更衣室である。泳ぎ終え、更衣室に戻り、シャワーを浴びて、水着を乾かし、髪を乾かし、服を着て、さて帰ろうと更衣室出入口の靴置き場で、靴に足を収めようとしていた、その瞬間だ。ほぼ同じタイミングで更衣室を出ようとしていた、70代後半くらいのじいさんが、おもむろに声を掛けてきたのである。
「にいちゃん」
 ぎくっとした。咄嗟に、なにか注意されるのだ、と思った。常連のじいさんというのは往々にして、テリトリー意識が強いのか、自分にとっての快適空間を保つため、場の調和を乱す存在に対して偏狭だ。それはそれで必要な場面もあるのだけれど、暴走すると、施設の正式なルールでもなんでもない事柄まで周囲に強いたりするので厄介だ。これまでの人生でその手の被害に遭って精神を削られたことは何度かあり、またそれかと身構えた。
 ところがである。そのあと言葉はこう続いた。
「腹、割れとったな」
 え、嬉し、と思った。5年ほど前からプール習慣をはじめて、当初は鏡に映る自分の身体ののっぺりさ加減を疎ましく思ったものだったが、毎回見せつけられるその姿に奮起し、日々筋トレに勤しんだ結果、一朝一夕では実現しないような、なかなか引き締まった身体になっている。そういう自覚はあった。しかし自覚はあったけれど、確証はなかった。誰かが客観的に認めてくれたわけではなかったからだ。
 それがとうとう証明されたのだ。見知らぬじいさんによって。
「あ、ありがとうございます」
 と返事をした。
 するとじいさんは続けて、
「なに、やってんの?」
 と訊ねてきた。「なにかやってんの?」ではない。この人、なにか特別なことをやっているのかな、そうじゃないのかな、という揺らぎはそこにない。なんかしらのことを心掛けてやっている人間でなければどう考えたって到達できない次元だろその身体は、という思考が透けて見える言い回しだ。そういう細かい言い回しにこそ深層心理が出る。
 それに対して僕はどう答えたかと言えば、
「いや、そんな、別に、ただ痩せてるだけっすよ」
 と謙遜してみせた。急に知らない人に話しかけれられたことで、動揺していたのである。ブログでは朗々と語っておきながら、現実の対人スキルはこんなものだ。しかしここは得意げに、「日々筋トレに勤しみつつ、なるべく脂質が低く、かつたんぱく質のたくさん含まれた食事をするよう心掛けておりまして」などと説明するような場面ではないので、これで正解なのだと思う。前回は大谷翔平だったが、今回は、女優が肌の若さの秘訣を訊ねられ、「特別なことはなにもやっていません」と答える気持ちが分かった。
 立ち止まることはせず、僕がそこで靴を履き終えて歩き出したことで、やりとりは終わった。
 駐車場に向かって歩きながら、改めてじんわりと喜びがこみ上げてきた。2年前の小学生も、今回のじいさんも、たぶん何の気なしに思ったことを言っただけなんだろうが、他者からの賛辞というものは、こんなにも言われた相手をしあわせにするのか、と思った。僕もなるべく言っていきたい、世の中のしあわせの総数を高める存在になりたいと思うが、なかなか難しいとも思う。40歳くらいの男が、更衣室で急に「ちんこでかいっすね」などと話しかけてきたら、それはもう別の意味になってしまうと思う。

2024/11/01

序文

 水泳が趣味なので、水泳にまつわるあれこれを誰かと語り合えたら愉しいだろうと思うが、通っているプールで知り合いは作りたくないし、web上のコミュニティなんかは、探せばあるんだろうと思うが、たぶん全然おもしろくないに違いない。
 もっともこれは水泳に限らない。人づきあいが全般的に苦手なので、家族や親類以外と友好な関係を築くビジョンがまるでない。はっきり言って、他人のことが基本的に嫌いなのだ。他人の話に波長を合わせるのが苦手。すぐに拒否感が出てしまう。そんな人間が、誰かと愉しくなにかを語り合うことができるはずがない。
 でも、だからこそ水泳なんじゃないか、とも思う。水泳は基本的に孤独なスポーツだ。個人競技は他にもいろいろあるけれど、水泳ほど、周囲の人間とコミュニケーションを取る必要がない、そして取るのが困難なスポーツはあまりないと思う。なにしろ水中である。しゃべれないのだ。さらには、表情を読み取るのさえ難しい。そういう意味では、人づきあいが苦手な人間にうってつけの趣味だと言える。
 しかしその一方で、冒頭のような叶わぬ願望を抱いてしまう。でも趣味ってそういうものだろう。同好の士と、あるある話などで共感し合いたいではないか。
 そんなジレンマをずっと抱えていたわけだが、先日リン・シェール著「なぜ人間は泳ぐのか?」(太田出版)という、水泳にまつわるエッセー本を読んだことで、そうか、仲間がいなくたって、水泳のエッセーがあればそれでいいんだ、ということを喝破したのだった。
 しかしながら水泳のエッセー本なんて、この世にほとんどない。水泳をする人間は、どうも文章というものを書かないらしい。水中で息を止めすぎて、酸素が脳に届いていないのかもしれない。ならばいっそ自分で書いてしまおうと思った。そんな経緯でできたのがこのブログである。100年間で7人くらいの孤独なスイマーが、このブログを読んで、少しでも喜んでくれたらいいなと思う。ちなみに「pooling」には、「共有する」という意味があるそうだ。われわれはひとりぼっちだ。ひとりぼっちだという思いを分かち合おう。