休館で泳げていない嘆きをさんざんしたくせに、いざ5月に入り、実際にプールライフが再開したら、半月以上なんの報告もしないという身勝手さ。でもこれは典型的な、便りがないのがいい便りというやつで、回数を数えたところ、昨日までで8回泳ぎに行っていた。泳いでばかりいたので、泳ぐことに関する文章なんてぜんぜん書く気にならなかったのだ。
泳ぐのはやっぱりいい。人って日常生活の中で、立つ(歩く・走る)、座る、寝るくらいしか行動の選択肢がないわけで、そこに泳ぐが加わると、体がその新鮮さに喜ぶのを感じる。大袈裟に言えば、三次元だったものが四次元になっているような感じ。嬉しい。
休館中にしこしこと作っていた新パターンの水着たちも、ようやく水着としての本懐を遂げることができた。これもとてもめでたく思っている。穿き心地、泳ぎ心地は、旧パターンのものとそう変わるわけではないが、なんと言ってもこちらの意識が違う。
ちなみにこれは余談だが、水着を作ったあとの余り布で実は水泳帽も作っているのだけど、型紙の置き方の都合上、「水着4枚分の生地を裁ったあと、さらに水泳帽の生地が取れるのは、柄に上下の区別がないものに限られる」という条件があって、そのため保有している新パターン水着には、共布の水泳帽があるものとないものがあり、これまで水泳帽を自作していなかった頃は、日々多彩な柄の水着を穿きながら、水泳帽は黒か紺のどちらか、というスタイルで、別になんの不満もなかったのに、一部セットアップが成立してしまった時点から、そうではない日、水着と水泳帽がお揃いでないということに、微妙に忸怩たる思いを抱くようになってしまい、もちろんぜんぜん深刻な話ではないのだが、人の向上心とか欲望というのは果てがないものなのだな、という淡いやるせなさみたいなものを実感している。かなり特殊な実感だと我ながら思う。
あともうひとつ懸念していることがあって、休館前には一切そんな気配はなかったのに、再開後から、知り合いと思われるひとりの人物の姿を2回見かけてしまい、動揺している。前の職場の、わりと年齢が近い男である。もちろん遠くに姿を見かけた瞬間に、さっと身を潜めたので、接触はしていない。地元ではない、知り合いがいない気楽さから、面積の小さい、自作の、まあまあ奇抜なデザインの日替わり水着で、大胸筋のトレーニングを意識したオリジナルのウォーキングをするという、のびのびした振る舞いをしているわけで、ここに知り合いの存在が生じると、一気に居心地が悪くなってくる。2回見かけたということは、まさか会員になったのだろうか。嫌だな。辞めてほしいな。プールなんて辞めろよ。飽きろよ。面倒なばっかりで、そんないいもんじゃねえよ。
まあだいたいそんな感じで、プールライフが再開している。時間や社会に囚われず、幸福にプールで過すとき、つかの間、僕は自分勝手になり、自由になるのだと思う。